自分じゃない誰かの責任 ― 「ある過去の行方」レビュー
空港に降り立った男を出迎える女。隔たる分厚いガラス越しに互いの声は届かず、身ぶり手ぶりで必死に意思の疎通をはかる2人。・・・この記号的なオープニ ングシークエンスで映画が植え込もうとする情報は、もはや相手の心の内を知ることのできない夫婦の“虚ろな空洞”なのか、あるいは物理的な障害に遮られて も意思を確かめ合おうとする彼らの“愛情の残滓”なのか―。
はたまた。母の再婚相手への嫌悪を隠そうとしない娘だが、同じ食卓についた男にティーポットをとってくれと頼まれれば、無造作にそれを差し出してから席を立つ。無視はせず、ポットを渡してから去る。この微妙な対応は何を意味するのか―。
イランの巨匠アスガー・ファルハディの映画は、登場人物の心情をさりげなく伝えるディテール描写に満ちている。上記2シーンは、後に明らかになる真相を知って初めて作り手の真意が伝わる、ある種謎解きのカタルシスを享受する仕組みになっている。